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黒瀬律。 十七歳、高校三年生。暴力団、黒瀬組組長黒瀬竜一の一人息子。進路、未定。
相良蓮。 同じく十七歳、高校三年生。六歳の時に母が病死し、愛人であった竜一に引き取られ、黒瀬家で律と同じく息子として育てられた事実上の養子。進路、律の行くところ。将来を決めるリミットまであと5か月。
*****
春の気配を残した、湿度を含む風が開け放した窓から入ってきて律の黒髪をさらりと揺らした。
やや俯いた黒瀬律は興味なさげに机を挟んで対面で話をしている担任の声を聞いていた。進路指導。高校三年になって通常であれば最終確認段階だというのに、律の進路は白紙のままだった。
「──黒瀬は成績はいいから国立だって狙えるんだがなぁ。なんかないのか。流石にこの時期に白紙はまずいぞ」
担任教師は困り果てたようにぼやいている。律の事情も多少は察しているだろうに、もちろんそのことには触れない。
「じゃあ、コロンビア大」
「は? 黒瀬。それは無茶だろ。それに海外の大学は試験の時期も──」
「先生。進路、なんでもいいからあればいいんでしょ」
適当な、しかも行く気もない大学の名前を出して、律は「じゃあ」と言って席を立ち、進路指導室を出ていった。背中に担任が盛大な溜息をついている気配がしたが、無視した。戸を閉めて、廊下を教室まで歩く。足取りはのんびり、ゆっくりというよりも重い。二年の半ば、自然と進路の話題が出てから律の憂鬱は増すばかりだ。
開いていた教室の後ろの入り口から中に入ると、蓮だけが残っていた。蓮は机に突っ伏してぼんやりしているのか転寝しているのかどちらかだろう。変わらない足取りで律は蓮の傍まで行って、ぽんと片手を頭に乗せた。
「蓮。終わったよ。帰ろう」
「んー……。お疲れ、律」
蓮は律の方に顔を向けて半分眠そうな声で返事しながら笑う。いつもと変わらない。律が頭の上に乗せた手を下すと、蓮は上半身を起こして大きく伸びをした後、しなやかな動きで椅子を蹴飛ばして立ち上がった。茶色の少し長い癖っ毛が揺れてライオンのたてがみのように見えて、律は少し笑った。
「律はさぁ、なんでそんなに進路決めたがらないの? 親父は好きにしていいって言ってんじゃん」
教科書もろくに入っていない軽いかばんを引っかけて蓮は首を傾げる。
「そうだけど……。でも、蓮は僕が一人暮らしするようなとこに行ったら嫌でしょ?」
律がかばんを肩にかけて訊ねると、蓮は表情も変えず、迷うことなく返してきた。
「律がどっか行くなら俺も一緒に行くだけだけど? 大学なんて行く気ないから、律が学校行ってる間、バイトかなんかする。現場系とか? そういうの」
「──蓮……。あのさ」
「親父は怒んないと思う」
すんなりと迷うことなく言い切る蓮に、律は続きの言葉を飲み込んだ。蓮はいつだって迷わない。律の隣が当然だと思っている。それが嫌なのではない。律はほんのり苦笑して「帰ろう」と言った。
*****
学校から徒歩十分。電車で三駅。そこからまた徒歩十分。律と蓮の通学路は近くて便利とも、遠くて不便とも言い難い微妙な距離だ。
夕方のまだすいている電車。隣り合って座ると、律はかばんを膝に抱えて溜息をついた。
「あのさぁ。律って親父のこと嫌い?」
ふと隣から訊いてきた蓮に、律はやや顔を俯けたまま考えた。
「嫌いでは……ないと思うよ。時々、ウザいけど」
「でもさー、律、高校入った頃からめっちゃ親父避けてるじゃん。あんま笑わんくなったしー。律がそうなるの、たぶん、なんとなくわかるけど」
「蓮は、いまの僕が嫌?」
「なんで?」
規則的に揺れる電車に差し込む柔らかい日差しを受けて、蓮は素直に聞き返してくる。
「ううん。気にしないで」
どうしてかほっとして律は俯けていた顔を上げた。ちょうど次の駅のアナウンスが流れて、最寄り駅がもうすぐだ。
並んで改札を出ると、律と蓮の住んでいる町はすぐに大きな道路が開けていてその割にはまだ開発が進みきっていない下町だ。車通りの多い道を曲がると商店街が拓けていて、夕方時ともなれば人も多い。昔花街だった名残か、奥まると繁華街が広がっている。商店街を途中で曲がり、住宅地の方へと向かった先、白壁の塀に覆われた純日本邸宅が律と蓮の住む家だ。
「ただいま」
「ただいまー」
律と蓮が異口同音に言って玄関で靴を脱いでいると、あちこちから「おかえりなさい!」と声がかかる。若い声から年輩の声まで全て男の声で、多少柄が悪い。それも律と蓮にとっては日常だ。ローファーを玄関に揃えるのは律。スニーカーを脱ぎっぱなしで揃えもしないのは蓮。
母屋と離れを繋ぐ廊下に向かう外廊下を歩いていると、開けっ放しの障子の向こうから低い声がかかった。
「おう、律、蓮。ちょっとそこ座れや」
障子の中は仏壇が二つ並んだ律の父の居間。律はこっそりと溜息をついて「はい」と返事した。
どっしりとした座卓の真ん中にはクリスタルガラスの灰皿に吸い殻がいっぱいになっている。律が父の対面に腰を下ろすと、蓮も隣に座り込んだ。
「律、お前は進路決めたんか? 今日、進路指導やったんやろ?」
恐らく暇つぶしに眺めていたのだろう新聞を置いて、座卓に肘をついた父に訊かれると、律は返事に困った。特に父が怖いわけではなく、単純についさっき、学校で担任とのやり取りを思い出して同じようにはぐらかすことはできないと知っているからだ。
「お前はなぁ、好きにせえって言っとんのになにそんな迷っとんだ」
「……迷ってるわけじゃないよ。単純にまだどうしたいか決まってないだけ」
揶揄い半分に笑う父に、律は反抗期の子どもの様な返事しかできない。正座した膝の上で両手を強く握って、顔が勝手に俯き加減になってしまう。隣の蓮が律をちらりと見た気配がした。
「まあ、ええわ。好きなだけ悩めや青春小僧。迷っとんなら修治にでも相談せえ。俺よりそういうのぁ修治の方が向いてんだろ。んで、蓮。お前は……どうせ聞くまでもねぇんだがよ。なぁ? 律の金魚のフンだもんなぁ」
「親父、わかってんならいいじゃんよー。なに? 反抗期の息子構いたかっただけじゃん?」
「うるせぇわっ! お前も律も同じ俺の子じゃ! 息子の進路の心配して何が悪い!」
だん!と頬杖をついていた手で座卓の表面を叩き割りそうな勢いで叩き、父は激昂する。元々、興奮しやすい質なのだ。しかし、律も蓮もだからと言って今更驚きもしない。その代わり──
障子と逆側の襖がすっと開いて、父と同年代の男──榊修治が姿を現した。
「竜一さん、声が大きすぎます。親子の時間も大事ですが、少しは若い者の手前……」
「あー? んなもんええんよ。今の若い者は放任主義だなんだっつて親の責任ってえもんが」
「いえ。そうではなく。うちの若い衆は心配には及びませんが……竜一さんの親馬鹿が過ぎると、締まりませんので」
タイミングよく入ってきた修治に父の感情の矛先が変わったな、と胸を撫でおろしていた律の制服の袖を蓮が引っ張った。顔を向けると蓮が悪戯そうな顔で外廊下の方を指さしている。要は「いまのうちに逃げよう」ということだ。律は蓮の要領の良さに笑って一緒に立ち上がり父の注意を引かないように部屋を出ようとした。が、
「律! 蓮! 晩メシはちゃんとこっちに食いに来るんやで!」
それだけ怒鳴り散らして、父は修治との言い合いに戻っていった。
*****
母屋と離れを繋ぐ廊下を辿って、律と蓮の部屋は離れにある。元々は母屋に部屋があったが高校入学と同時に律が父と大いに揉めて離れに部屋を確保した。当然のように蓮の部屋も離れに一緒に移った。古い日本邸宅で敷地も広く、年季は入っているが手入れはされている屋敷と、元来人の出入りが多いせいもあり、離れの作りも母屋をコンパクトにしたようなもので生活に関する不便は全くないが、父は朝晩の食事は全員そろってすることを条件とした。
律と蓮は離れのぞれぞれに部屋に戻って、制服から着替える。その後は──
「蓮」
元は襖であったが木戸に変えた戸を挟んで律は短く呼びかけただけで、返事も待たずに部屋に入りベッドを背にゲームで遊んでいる蓮の隣に足を崩して座り、ぐったりと上半身を預けた。蓮は律のことを気にした様子もなく遊んでいるままだ。
蓮の部屋は性格がそのまま表れたように、十七歳らしい雑多感がある。洗濯が終わった服はかごに取り込んだまま、雑誌は詰み上がっていて、部屋を離れに移したと同時に勉強机は捨ててしまった。代わりにテレビにいくつかのゲーム機が繋がれている。律の無駄なものが少ないシンプルで片付いた部屋とは違う。けれど、律は蓮の部屋にいる時間の方が多い。一人でいるよりも落ち着くのだ。
「律、疲れてる?」
「んー……ダルい。先生も父さんも進路、進路ってうるさい」
「まぁ三年だしさー」
蓮に寄りかかりながら片手で目元を隠す律に、蓮は視線を動かさないまま軽く笑う。声がゲーム音に重なるのもいつものことで、気にするようなことではない。
「俺はさぁ、律が好きな進路選べばいいと思うけど? だって、俺、変わんねぇし。律が選んだとこに行くだけだし」
「……なんで?」
何気なく訊いた律の方が内心動揺した。一瞬、ゲーム音が遠くに聞こえる錯覚に陥った。蓮とはいつも一緒にいて離れている時間の方が少ない。蓮といない日常を想像できないのは律の方だ。
「なんでって、律といるのが当然だから?」
蓮はコントローラーを置いて、律の方へと首を傾げてやや疑問形で返事をしてきた。そうやって一緒にいるのが当たり前になりすぎていて、蓮の中に律と離れるという選択肢がない。その分、律より蓮の方は迷いが少ない。環境もなにもかも優先順位が律が上で、その先のことも当たり前だと思っているのだろう。思考がシンプルで、律は蓮が羨ましい。
「蓮だって、好きにしていいって父さんも言ってるのに」
「好きにしてんよ? 親父だってわかってっから、俺のことはほっといてんじゃん」
「だって、そしたら蓮も……」
「別に俺は気にしてないよ」
蓮に寄りかかり、話の矛先を蓮に無理矢理すり替えてから、律はそれがただの責任逃れだと気付いて最後まで言うのを辞めたが、蓮は変わらずきっぱりと返事する。子供が駄々をこねている様な幼稚さと、優柔不断に自己嫌悪して律は背を向けて蓮のベッドに突っ伏した。
「律はさー、真面目過ぎんだよ。マジで親父の子? 全然似てねえじゃん」
「んなこと言われても、そうだもん」
「んはっ。母ちゃんに似たんかー? 俺知らないけどさ」
のしっ、と背中に連の重みがのしかかってきて、突っ伏した律の後頭部に連の顎が乗っているのを感じる。くぐもった声で返事をしていると、あっけらかんとした笑いと無邪気な揶揄い声が降ってきた。
「僕も知らない。蓮の方が父さんに似てるかも」
「そりゃさー、もう何年一緒に暮らしてると思ってんの。律といんのと同じだけ、親父ともいるんだからさぁ」
そうやって随分と大きな家族とずっと暮らしてきた。律は突っ伏したまま笑って「蓮、重い」と抗議する。蓮は律の声に素直にのしかかった体を引いて、それでもまだベッドに突っ伏したままの律にくっついたままでいる。ぴこん、と蓮のスマホの着信音が鳴った。
「律。今日の晩メシ、とんかつと唐揚げとコロッケ。野菜何食いたいって健兄が訊いてる」
律のスマホにも同じメッセージが送られてるのだろう。人数が多い分、家の中の連絡事もグループチャットを使うのは早いうちから修治が取り入れた効率的なシステムだ。
「んー……お浸しか酢の物。できるやつでいいって言っといて」
簡単にできて失敗しようのないものを律は適当に呟いた。
「おっけ」
蓮はスマホを弄ってメッセージの返信をした。日常的な、いつものやり取りだ。それでも律は時々、考える。
男ばかりの大所帯で夕食のメインが肉と揚げ物になりがちなのは女手がいないから仕方がない。血の気の多い者や蓮の様な食べ盛りが揃っていては女手がいてもバランスのいい食事は難しいだろう。
そもそも、台所仕事まで買って出てしまう男たちを、律は不思議に思っている。好きでやっているのかどうかも不明だ。女手を雇う金がない訳ではないが、そうしないのは父なりの距離の取り方なのだろうとは理解できる。
ただ、どうしたことかこの家は律が生まれた時から人が絶えなく、賑やかだ。蓮が来てからはもっと賑やかになった。その雰囲気を律は嫌いだと言い切れない。
抜け出したいのか、変わりたいのか、なにかが怖いのか漠然としたままの十七歳。高校三年生。それが律。
「どうしてって、律。お前なぁ……」 父は大きな溜息をつき、こめかみを押さえた。どうしてわからないのかといった雰囲気が伝わるが、律にわからないものはどうしようもない。そして、わからないから余計に不安になるのだ。だが、律はそれをうまく言葉にして伝えられなく不安から焦燥感が増していく。手に握った犬のキーホルダーに力が入る。「竜一さん。若は蓮がここに来る前のことをほとんど知らないのですから、説明するにはいい機会では?」 パソコンの画面から視線を離すことなく、修治が簡潔に口を挟んできて、父はまた溜息をついた。「んなこと、俺が言う筋でもないだがなぁ……」「六歳までの記憶を頼りに蓮自身が語るのを待つのは非合理的ですし、客観性に欠けます。蓮もあなたの息子なんでしょう? 親の責任ですよ」 父と修治の会話の裏にはなにか怖いものが潜んでいると律は直感した。どうして、と安易に訊いたことの説明に理屈抜きの未知の恐怖が滲む。それでも律は蓮が「律を殴るくらいなら出て行く」と言った理由がわからなく、なんらかの原因があるのなら知りたいと思う。知らなければ、律はなにひとつ納得できない。「僕が父さんに聞いちゃ駄目なことなら、蓮が帰ってきたらどうしてあんなこと言ったのかいくらでも問いただす。でも、蓮も覚えてないようなことなら、問いただしてもまた蓮を傷付けるだけだ。それは嫌なんだよ」 律はぐちゃぐちゃに混乱した頭でなんとか自分の主張を口にした。どこかに行ってしまった蓮は若い男たちと修治が総出で探している。なにも持たないで出て行った蓮がいくら体力があろうと逃げ切れるとは思えない。時間がかかったとしても、きっと帰ってくるだろう。ならば、律はただ無為に時間をやり過ごして待つのではなく、知らずに蓮を追い詰めていた原因と向き合わなければならないのではないか。 普段よりも冷静さを欠き、頭の回転も鈍くなっている。 それでもなにもしないで無知のままでいるよりは、まだましだ。「……けったくそ悪い話やぞ……」 苦虫を噛み潰したような顔で父は吐き捨てるように言った。「いい。僕は……蓮が笑ってるとこしか知らないから」 感情ばかりが先走って焦って慌てていた律の気持ちが潮の引くように静かになった。いま、律ができること。蓮を理解したい、一緒にいたいという気持ち。それから、好きという感情。どれも、律が知ってい
がしゃん、と叩きつけるような玄関の音を律は動けないまま聞いた。嫌いという拒絶ではなく、出て行くという断絶の音のように聞こえ、律は少しの間呆然としたが、そんな場合ではないと慌ててかばんを手繰り寄せてスマホを手にした。 帰宅後、ほったらかしにしていたスマホには気付かないうちに蓮からのメッセージが何件も未読でたまっていた。 律、どこいんの? 立ち聞きしてねーって 待ってただけ なあ、律? シカト? 怒ってんの? どーして? 全て、律が着信に気付いていなかっただけだが、そのメッセージで次第に蓮の不安が増幅していっているのが伝わる。律は何度も入力を間違えながら「どこにいるの」とメッセージを送ったが、不自然なほどすぐそばで着信音がした。は、と顔を上げると部屋の入口に蓮のかばんが放り投げられたままだ。ふらりと糸が切れたように力なく出て行った蓮はなにも持っていっていない。律が蓮のかばんを開けてみると、中にはスマホも財布もそのまま。学校から帰ってきた制服の、そのままで。「……蓮。ほんとうにどこに行ったの……」 なにも持たない身一つで。 心の半分が急に毟り取られたような気持ちで律は呆然と自分のスマホと蓮のかばんを持ったまま崩れ落ちる。 冗談でも蓮が家を出て行くなどと言ったことはいままでない。それどころか蓮ひとりの希望ならば大人になったら黒瀬組に入れろと小さな頃から父に要求していた。蓮にとってこの家と黒瀬組という場所は単純な暴力団ではなかった。むやみやたらに暴力でなんでもねじ伏せるような──理不尽な暴力を加える蓮の父とは違った使い方をする場所だった。そのことを律が知らなかっただけで、蓮は体感として小さな頃から知っていたのだろう。だからと言って、 まだ十七歳の高校生の蓮が、なにも持たずに一人であてもなにもなく家を出て、心配しないなどという方が無理だ。武道の心得があり、強く健康でも、それを支えるものがなにもない。「探さなきゃ。……探して……」 それからどうしたらいいかなど、まだ律にはわからない。けれど、ひとりでなにも持たずに出て行った蓮が、ただの一時の苛立ちでそう言ったのではないというのだけはわかる。本当に蓮は律を殴ったかもしれない自分を疑っているのだ。せめてその疑いさえ晴らすことができれば、例え蓮との関係が修復できなくても蓮が出て行く理由はなくなる。
帰宅すると律は自室にこもって頭を抱えた。 どうしてあんなことを言ってしまったんだろうという後悔が襲ってくる。ちゃんと蓮と普通に接することができると思った矢先なのだ。完全に律の八つ当たりで、蓮に非はないのに勝手に立ち聞きだと決めつけて怒鳴り散らした。律は蓮がどんな顔をしていたのかも見ていない。好きだと思う。大事だと思うのに、自覚するほど上手くできない。 気持ちは本当なのに、嘘をついている様な感覚が拭えない。 何度も蓮が壊れてしまう前に戻りたいと修復を試みているのに失敗してしまう。一度壊れてしまったら同じには戻れないのだろうか。割れた茶碗を直しても金継ぎの跡が残ってしまうように、なにもかも元通りなどというのは都合が良すぎる願いなのか。「このままじゃ……蓮に嫌われる」 呟いた言葉は想像以上に現実味を帯びて律を震わせた。 いままで例え些細な喧嘩をしてもすぐに仲直りしていたが、律がこのままではいくら蓮でも我慢の限界が来るだろう。その果てにあるのは、蓮のいない世界。六歳から数えて十一年、ずっと一緒にいた分、律には蓮のいない世界など想像もつかない。父や修治がずっといたのと同じく、律の世界に蓮は存在していることが当然で当たり前すぎた。それが自分の身勝手で失うとしたら、恐ろしすぎる。「それは……駄目。ちゃんとしなきゃ。普通に、しなきゃ」 律が小さくなって頭を抱えている間に放りだしたかばんのポケットからはみ出したスマホの画面が明るくなり、通知を知らせていたが音声を切ったままで律は気付きようもなかった。 しばらくして部屋の木戸が遠慮なしにがらりと開けられ、驚いて律は顔を上げた。肩に引っかけたかばんを放り投げ、蓮がずかすかと律に近寄り、しゃがみこんで近い距離を詰めてくる。それだけで律は緊張してしまい、混乱する。なにか言わなくてはならないと思いながら、言葉が出てこない。「なあ、律。俺、なんかした?」 普段よりも低い蓮の声。かばんを放り投げた仕草に滲む苛立ち。「して、ない。ごめん……八つ当たり、した」「そんだけじゃねえよなー? 別に八つ当たりなんてどーでもいいんだよ。最近の律、変。だから、俺、なんかしたんかなって訊いてんの」「してない。蓮はなにもしてない。僕が悪いだけだから」 少しでも距離を取ろうとしても律の背中はベッドでどうにもならない。蓮の真っ直ぐな視線が
──蓮を好きだなんて、当然だと思っていた。だって、六歳からずっと一緒にいて同じ年で、家の中で一番近い子供っていう存在。喧嘩らしい喧嘩もほとんどない。それだけ仲が良くて嫌いだという方が無理がある。 けれど──好きって、なに? 恋愛感情って、なに? いままで思っていた好きとなにが違うの。特別に好きって、家のみんなと商店街の人たちに対する好きの度合いが違うのと同じじゃないの。ただ、その好きの一番が蓮なだけで。 律はぐるぐると考え、しまいには辞書を引っ張り出し、意味を引いた。 恋愛感情。相手を恋しいと思うこと、恋を抱いた感情、などの意味の表現。 そしてまたわからなくなる。恋とは、と。そして、今度は恋の項目を引く。 恋。一・特定の人に強くひかれること。また、切ないまでに深く思いを寄せること。恋愛。「—に落ちる」「—に破れる」二・土地、植物、季節などに思いを寄せること。 これもまた抽象的で判然としない。律にとって蓮を好きなことは自然で、一番になることも当然なのだ。特定の相手に強く惹かれると言われても他に比較対象がない。切ないまでに深い思いというものを知らない。 律は辞書を放り投げてぐったりとベッドに体を投げ出した。修治はきっぱりと恋愛感情以外になにがあると言ったが、律には蓮を好きなことが当然すぎて、恋愛というもの自体が縁遠すぎたものでまったく理解が追い付かない。辞書を引いても説明は抽象的で具体例がない。そもそも恋愛感情や恋というもの自体は人によって形が違うのだろうから、具体例を出しようもないのかもしれないが、それでは困る。「だってさ……蓮だって困るじゃん? 僕が蓮を特別に好きとかいったらさ……。僕、男だし」 ふと独り言を呟くと、律はなにか急に頭がすっきりした。 そもそも恋愛感情とは相手に伝えなければならないものなのか。律が驚いて動揺してしまったのは不意打ちのキスのせいだ。けれど蓮はキスとも認識していない。血が出てたら舐めておけば治るから程度の感覚で、律だけが好きの意味を書き換えられた。ならば、 手を繋ぐ、寄りかかる、そんなものの延長線上に傷ができて血が出てたら舐めるという行為が蓮の中で繋がっている。 単純に蓮の行動パターンが増えたと律の認識をアップデートするだけでいいのではないだろうか。律が蓮の行動に過剰に反応し、キスだと受け取ってしまったから混乱
「ただいまっ」 普段の穏やかな声ではなく言い捨てるように言って、律は玄関で靴も揃えずかばんを前に抱えて顔を隠すようにしてばたばたと離れの自室に逃げ込んだ。 かばんを乱暴に放り投げて着替えもせずに崩れるようにベッドに突っ伏して引き寄せた枕で頭を隠す。内心はぐちゃぐちゃだ。 蓮の馬鹿っ! なんであんなことしたんだよ! 馬鹿馬鹿っ!! いつも一緒にいて距離が近くても、そんな風にされたことはなかった。どちらが上と言うわけでもないが、兄弟のようなものだと思っていた。だから、手を繋ぐことも寄りかかっていることも抱きついていることも互いに疑問にも思わなかった。けれど、たとえ指先であろうと唇が触れるとなると話が違う。いくら律が誰かを明確に好きだと思ったことがなくても、そのくらいの判別はつく。 舐めとけば治るなんて、子どもの言い分で、更にそれは自分で処理する場合にしか通用しない。「ううー……」 ぎゅ、と頭を隠す枕を握る手を強くして律はくぐもった声を上げる。 律が蓮の行為に嫌悪したならばそれだけの話なのだが、律には嫌悪がない。驚きはしたが、それは不意打ちの反射反応で兄弟同然に育った同性に対する嫌悪感はなかった。そのことが余計に律を混乱させ、たかが指先に触れた唇だけで内心蓮を過剰に罵倒してしまう。 律の中に渦巻いているぐちゃぐちゃが肥大しきって爆発してしまいそうな不安に駆られる。蓮を壊してしまってからずっと律の中に居座るぐちゃぐちゃは、簡単に律を不安にさせてしまい、できるだけ目を背けていたが肥大しすぎたそれはもう目を背けられない存在になってしまって、いままでの全てを根底から覆していってしまいそうだ。「あのさー……律。ごめん。あんなにびっくりすると思わんくて」 ふいに蓮の声が背中から聞こえた。いつの間に帰ってきたんだろうと考える余裕も律にはなかった。「びっくりしたよ! 蓮はああいうの誰にでもするの」「……なに言ってんの? 律だからじゃん。んーっと、ちびっことうちの親父や修治や兄貴たちは置いといてさ、俺が律以外のやつのこと要るって言ったことないと思うんだけど?」「なにしたかわかってんの!?」「傷、血ィ出てたから舐めようとした」 怒鳴ってはいけない、と頭ではわかっているのに律の声は大きくなっていたが一方的に怒鳴り散らすよりも混乱の方が前面に出ていたからか、蓮は
「……あ。またやっちゃった」 夜に自室で課題のプリントを解きながら思わず律は呟いた。口の中に爪の欠片。ここ数日無意識のうちに爪を噛んでしまうことが多くなった。元々そのような癖はなく、ごく最近のことだ。左の親指の爪がボロボロになったことに気付いてからは気を付けるようにしているのだが、なにかに集中していると注意を忘れて噛んでしまう。もう左手の爪は噛み跡でぎざぎざになってしまっている。更に、小さなささくれをむしってしまっており、爪の生え際に血の滲んだ跡がいくつか。 律はそんな自分の手を嫌だな、と思う。ボロボロの爪のまま蓮の頭を撫でたら、髪を引っかけてしまいそうだ。──触れないけれど。想像するだけだが。 隣の部屋からは微かにゲームのプレイ音が聞こえる。いままでなら律はその隣で蓮のゲームや部屋にある雑誌を眺めていた。けれどそれは蓮が律が傍にいることを無条件で許していたからだ。もうそんな風に近くにいたら、いつ蓮を驚かしてしまうか、怯えさせてしまうか予測さえできない。結果、律は蓮の部屋に入ることも少なくなり、暇を持て余して課題のプリントで気を紛らわしている。 律の爪先にぎざぎざの歯形が増える。ささくれをむしってしまった後の小さな傷が増える。 隣の部屋からがちゃ! と大きな音がした。ゲームの音が聞こえなくなり、ゲームオーバーになった蓮がコントローラーを苛立ち紛れに投げ出したのだろう。普段ならば「負けたー」と悔しそうに言うだけで、蓮は物に当たらない。喧嘩っ早く、武道の腕があっても粗野なのではない。それは律が一番よく知っている。***** 普段よりもほんの少しだけの距離。そんなことを律は気にかけていた。近付きすぎなければ普通でいられる。癖のように触れてしまって驚かすことも怯えさせることもない。蓮にくっつかれることも寄りかかられることも、触れられることも嫌ではない。ただ、律から手を伸ばしてしまうことが問題なのだ。だからほんの少しの距離が必要だった。 それが律が蓮に普段と変わらない振りを装え、不自然にもなりすぎないラインだ。 朝、蓮を起こす起こし方、学校での過ごし方、帰ってきて眠るまでの過ごし方が少しずつ変化する。けれどひとつひとつは些細な変化でしかないはずだった。なのに、それすらもうまくいっていないようで律に小さな不安と迷いが蓄積されていく。 胸の奥のぐちゃぐちゃが